写真中央の高台の部分に城があったと伝わる。
2018年1月21日撮影
◆別名:
◆所在:
岡崎市上三ツ木町城堀37
◆交通:
◆歴史:
松平宗家6代目信忠の子で、松平清康(徳川家康の祖父)の弟にあたる、松平信孝が築いた城である。
兄の清康が家臣に殺害(森山崩れ)されると、清康の息子である広忠が跡を継ぐが、信忠の弟で松平信定(桜井松平家)が反旗を翻し、岡崎城より広忠を追放した。
この時、信孝は信定側に付き岡崎城の留守居を任されるが、今川氏の支援を受けた広忠が三河へ戻って来ると、岡崎城を広忠に明け渡し、後見役としての地位を築いた。
三ツ木城は信孝の弟である康孝が領有していたが、権勢を握った信孝は三ツ木の地を横領し、次第に老臣らと対立を深めていき、天文11年(1542年)病弱の広忠の代参として今川家に年賀の挨拶に赴いた信孝の留守を狙い、老臣衆は信孝の屋敷を占拠し、三ツ木城も攻め落とされた。
これに対し、信孝は反宗家の立場を明確にし、1547年(天文16年)に上和田城の松平忠倫や上野城の酒井忠尚らと共に、尾張の織田信秀に付き、山崎城を占拠。小豆坂の戦いの後、岡崎城攻撃に赴くが、耳取縄手で討死を遂げる事となった。
跡を継いだ重忠は広忠と家康父子に仕え、天正18年(1590年)家康の関東移封と共に、三ツ木の地を離れたため、廃城になったと言われている。
◆現在:
2015年過ぎまでは城跡と言われる、周囲より少し高い地に民家が立てられていたが、近年取り壊され更地となってしまっている。