城址に入る手前に立つ看板
2017年6月18日撮影
◆別名:
岡村御殿
◆所在:
岡崎市岡町西側
◆交通:
◆歴史:
池野大学が築いた城と言われている。
永禄4年(1561年)三河統一を目指す松平元康(徳川家康)は、桶狭間の戦いが終わっても今川家に従っている中島城の板倉重定を、深溝城主の松平好景に命じて攻撃、落城させた。
重定は岡城へと撤退し籠城。これに対し元康自らが軍を率いて攻撃するが、川合勘解由左衛門宗貞の知略によって防戦し、松平軍の攻撃を支えきったと伝わる。
その後、重定は、東海道を東へ向かって佐脇城へと撤退していった後、赤坂合戦で討死を遂げているが、岡城は川合宗貞が城主として認められている事から、元々、川合氏の城であったとも考えられる。
元康に従った川合宗貞は酒井正親に属す事になり、川合家は代々酒井家の家老職を務め、その子孫には酒井家が姫路藩へ転封になった寛延2年(1749年)に、城下を襲った台風による水害の際、独断で被災者を城内に収容し、備蓄米を与えるなどの処置を行った川合定恒が存在する。
天正13年(1585年)家康は岡城を廃して岡村御殿を築くが、関東移封の後は、上洛する際の宿泊所として利用したと言われている。
◆現在:
城跡へ通じる路地の脇に岡城の看板が立てられており、竹林に囲まれた中に、土塁と空堀を配した一町余りの城だったとの記録が残されている。
現在も土塁の一部が残されている反面、堀などは埋められてしまっている部分も多くあるが、当時を偲ぶには充分である。
土塁とその手前に残る堀の跡。
当時、堀はもっと深く掘られていたと思われる。