百々(どうど)城

城跡西側に建つ七所神社

 

2017年5月2日撮影


◆別名:

百々砦

 

◆所在:

岡崎市百々町東側

 

◆交通:

 

◆歴史:

応永年間(1394年~1427年)の初期に、上野国青山郷一帯を支配していた青山忠治が三河へと移り住み、忠治の孫にあたる光教が応永33年(1426年)頃、松平郷から岩津城へと本拠を移した松平信光(松平宗家3代目)に従って百々に城を築いた事が始まりと伝わるが、光教から数えて4代後の青山忠門の代に三河へ移り住み、百々城を築いたと言う説も存在する。

 

忠門は松平広忠、家康に従い、小豆坂の合戦や桶狭間の戦いなどに従軍。
三河一向一揆の際も家康側に付き、岡崎城を守備している。

 

元亀2年(1571年)甲斐の武田信玄は軍勢を発し、その一軍は足助城を経由し、岡崎城を目指して侵攻を開始。忠門は一帯に柵を築いて応戦し、武田勢を食い止める事に成功するが、その後、下山方面から攻め込んできた武田軍を、真福寺近辺で迎え撃った際、武田軍を撃退するものの、受けた鉄砲傷が元で戦死を遂げる。

 

忠門の息子の忠成は二代将軍秀忠の傅役となった後、関東総奉行・江戸町奉行などを歴任。その息子忠俊は老中として、三代将軍家光を補佐し、土井利勝、酒井忠清と並んで『寛永の三傑』と称される事となる。

 

天正18年(1590年)家康の関東移封に伴い、青山忠成も相模国に領地を得たため、百々城は廃城となったと言われている。

 

なお、東京の高級住宅地の一つとして名前が知られている青山は、青山氏の屋敷があった事に由来している。

 

◆現在:

七所神社東側にある住宅地が城跡と言われており、その一角に墓が残されているが、神社の建つ場所は見晴らしの良い高台のため、実際の城としての機能は七所神社一帯にあり、こちらは城館として使用されていたと考えられる。