上和田(うえわだ)砦

砦近辺に建つ天白神社

 

2017年4月3日撮影


◆別名:

 

◆所在:

岡崎氏天白町郷西

 

◆交通:

 

◆歴史:

天文9年(1540年)尾張南部に勢力を広げていた織田信秀は、三河を支配している松平家の家督争いに乗じ、松平家の重要拠点の一つである安翔城を攻め落とし、岡崎城の西を流れる矢矧川西岸まで勢力を伸ばす事に成功した。

 

西三河へ勢力を伸ばす織田家に対し、松平広忠を後押しする駿河の今川義元は、三河より織田家を駆逐するべく、天文11年(1542年)に大軍を率いて出陣。

これに対し、織田信秀も軍勢を率いて安翔城を出発し、矢矧川を渡河して上和田に砦を築いて本陣とした。

 

その後、両軍は岡崎城の南東にある小豆坂で激突。

戦いは小豆坂七本槍(※注1)を初めとした織田諸将の活躍もあり、織田勢の勝利に終わったと言われている。

 

※注1

小豆坂七本槍

●織田信光:守山城主:織田信秀の弟で、村木砦の戦いなどでも活躍

●織田信房:大垣城主織田信辰と同一人物か?

●岡田重能:星崎城主:織田信雄の家老となるものの、信雄によって殺害された岡田重孝の父

●佐々政次:井関城主:佐々成政の長兄。桶狭間の戦いで正方寺砦に入り討死を遂げる。

●佐々孫介:佐々成政の次兄。稲生原の戦いで討死。

●中野一安:又兵衛屋敷の主:信長配下として弓衆を率い、後に信長によって佐久間信盛が追放される時の使者を務めた。

●下方貞清:上野城主:織田信長の配下として各地で一番槍の戦功を立てた

 

◆現在:

場所は推定地である。

上和田砦は上和田城と同一と考るのが一般的だが、上和田城はもともと大久保一族の発祥地である上に、平地の中にある城館、さらには敵地に近い事もあり、軍勢を駐屯させた場合、織田方としては攻撃を受けやすい状況となる。

 

現在の六名町にある天白神社は、当時織田方の拠点となっていた上宮寺城から真東に進んだ、矢矧川と乙川の合流地点を渡りきった地にある。

 

この地より下流は川幅も広がるため、軍勢を渡河させるには困難を伴う。

逆に、上流になると松平家の本拠地である岡崎城が至近になるため、この地で渡河した可能性は高く、橋頭堡として砦を築くには絶好の位置になる。

 

天白神社の南側には『城南』や『郷西』など城館を思わせる字名が現在も存在し、矢矧川の西側は渡古戦場の碑が立てられているが、現在は鉄道の各路線が通っている上、宅地化も進んでおり、戦場だった面影は皆無である。